屋外広告の起源と、日本における広告のはじまり

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私たちの暮らしのなかで、いつも目にしているもののひとつに「屋外広告」があります。駅前の看板、ビルに貼られた大型ポスター、ネオンサイン、バスのラッピング広告……。あたりまえのように存在していますが、そもそもこうした「屋外広告」は、いつ、どこで生まれたのでしょうか?

そして日本では、広告のはじまりはどんな姿をしていたのでしょうか。今回は、そんな「広告のルーツ」について少しだけ歴史をさかのぼってみたいと思います。


屋外広告の起源は古代エジプト?

「広告」と聞くと、近代の新聞やテレビCMを思い浮かべるかもしれませんが、その原点はずっと昔までさかのぼることができます。

なんと、最初の屋外広告の記録は古代エジプトにまでさかのぼると言われています。エジプトの都市テーベで発見された石碑には、「逃げた奴隷の情報」と「その奴隷を連れ戻した者には金を払う」という内容が刻まれていたそうです。これは現代でいうところの「張り紙」や「ビラ広告」に近いもので、当時の人たちが「情報を広く知らせる手段」として使っていたことがわかります。

また、古代ローマでも、闘技場の開催予定を壁に描いたり、商品や商売の案内を壁面に書いたりしていました。こういった壁画型の広告は「ウォール・ペインティング」と呼ばれ、今でいう屋外看板の原型とも言えるでしょう。


日本における広告のはじまり

では、日本ではどうだったのでしょうか?

日本で広告らしきものが見られるようになったのは、奈良時代〜平安時代(8世紀〜)とされています。この時代には、「触れ(ふれ)」と呼ばれる、口頭での情報伝達がありました。これは、役人が村々を回っておふれ(命令)や情報を声に出して伝えるという方法で、広告というよりは「お知らせ」に近いものでした。

ですが、商業的な広告が登場するのはもう少しあと、江戸時代になってからです。


江戸時代の広告文化

江戸時代には、都市部を中心に商業が発達し、庶民のあいだにも「モノを買う」「店を選ぶ」という意識が広まっていきました。この時代に広く使われた広告の代表例が「引札(ひきふだ)」です。

「引札」は今でいうところのチラシやポスターのようなもので、商人が自分の店の商品を紹介するために配っていました。浮世絵風の華やかなデザインが特徴で、読みやすく、見た目も楽しいものでした。

さらに、町には「看板」も多く立てられるようになりました。当時は識字率が高くないため、文字だけでなく絵やシンボルを使って、誰でもすぐにわかるように工夫されていたのが特徴です。たとえば、薬屋さんには「虎」や「龍」、蕎麦屋には「のれん」、銭湯には「ゆ」の文字など、わかりやすいイメージが看板になっていました。

また、歌舞伎の興行案内や芝居小屋の宣伝なども盛んになり、文字と絵を組み合わせた広告表現の文化が花開いていきました。


明治時代と近代広告の到来

明治時代に入り、新聞や雑誌が普及すると、日本の広告は大きく変わります。

最初期の新聞広告は、実はとてもシンプルで、「この商品を売っています」「〇〇病に効きます」といった短い文だけでしたが、徐々に写真やイラストを使うようになり、レイアウトも工夫されていきます。

このころから「企業が広告にお金を払う」という仕組みが明確になり、広告業界も誕生しました。屋外では、ガス灯やネオンサインが使われるようになり、街の景色が「広告とともにある」時代に突入していきます。


まとめ:広告は暮らしとともにある

広告は「売るための手段」であると同時に、「時代を映す鏡」でもあります。

古代の石碑に刻まれた文字から、江戸の引札、明治の新聞広告、そして現代のLED看板やデジタルサイネージまで──時代が進むごとに、広告は形を変えながらも、人とモノ、人と情報をつなぐ役割を果たしてきました。

次に道ばたの看板や電車の中吊り広告を見たとき、「これは今の時代を映しているものなんだ」と少し視点を変えて見ると、また違った面白さが見えてくるかもしれません。

(広報担当)

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