雑草が覆う地球――人間がいなくなったあとの風景

コラム

もし、地球上から人間という存在がいなくなったとしたら――。
そのとき、私たちが「雑草」と呼んできた植物たちは、静かに、しかし確実に地表を覆いはじめるだろう。

人間にとって雑草とは、望まぬ場所に勝手に生える植物のことだ。
畑に忍び込んだドクダミ。庭の芝生にしぶとく生えるタンポポ。アスファルトの割れ目に顔を出すオオバコ。
それらは「管理すべきもの」「抜くべきもの」とされ、日々の暮らしのなかで敵視される。だが、それは植物そのものの本質ではない。
雑草とは、実のところ人間の都合が生んだ概念に過ぎない。

自然界には、雑草というカテゴリは存在しない。
ある植物が「歓迎されるか・排除されるか」は、ただ人間の目的に適うかどうかで決まっているだけなのだ。
同じドクダミでも、薬草として重宝される場所では「ありがたい植物」として扱われる。
それが畑なら「抜くべき雑草」になる。
つまり、雑草とは人間の視線と価値観が貼りつけたレッテルにすぎない。

では、人間がいなくなればどうなるか。
答えは明快だ。雑草と呼ばれた植物たちが、陽の当たる土地、雨と土がある場所に根を下ろし、繁殖を始める。
最初は、セイタカアワダチソウやススキ、ヒメジョオンなどの先駆植物が一帯を支配する。
やがてその土地は、次第に樹木が育つ森へと変わっていく。
これは「生態的遷移」と呼ばれる自然の摂理であり、雑草たちはその第一歩を担っている。

つまり雑草とは、自然の自己治癒力の象徴なのだ。
人間がどれだけアスファルトを敷き詰めても、土がむき出しになれば雑草は戻ってくる。
それは破壊された大地を癒やし、再び生命のサイクルへと導く「自然の使者」でもある。

私たちが「管理すべき」と切り捨ててきたもののなかにこそ、自然の本質が宿っている。
雑草は人間の秩序に挑む存在であると同時に、自然の循環を守る最前線に立つ植物なのだ。
それを邪魔者と見るか、共に生きる隣人と見るか。
その問いは、これからの人間と自然の関係を問う鏡である。

(広報担当)

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